多田正美と鈴木彩花のサウンドウォーク+川村祐介

soundwalk
2025年8月29日(金)

参加費 祝儀(ドネーション)

現代音楽家の多田正美と土鈴作家の鈴木彩花、音楽家・トランペット奏者の川村祐介による、音と身体に注目するツアーを行います。
音を奏でるものに耳を澄ますこと、自身も森の中で音をだす存在であること。
歩くということから、身体全体の感覚を探り、千年の森の中にあるアート作品を鑑賞していきます。
途中でどのようなことに誘われていくかはお楽しみです。
最後には、ほどよくあじわった身体のなかで、参加者全員で演奏する機会を設けます。

鈴木彩花の土鈴を参加者とともに鳴らす時間もございます。
ワークショップでつくった土鈴をお持ちの方はぜひご持参ください。

多田正美
サウンド ウォーク について 
場所 : 長野県大町 千年の森にて  /  
森の中の少し高いところへ、又は空がぽっかり空いた平らな場所での即興演奏があり、山裾から歩いて行くところからサウンドウォークが始まります。

細竹(一節)10本位を細ロープで結いで、それを体に吊り下げて。それと音が良く鳴る素材一つ(石、枯枝など)見つけて、各自の地声を自然の中に出す切っ掛けをつくります。軽装長袖とリックに水。互いがこの初体験の参加者と、感性感覚を合わせそれを磨いて行きます。今回は森の中を歩きながら行う。(自由勝手に歩いても何も起きない)新しい音体験は音を切っ掛けに森の中を、身体が音と出会いそれに合わせながら歩いて見たりする。心臓からは体内に脈拍として、波動がくり返され出ている、口から息を吐いては吸って呼吸する。それは演奏とはでないのですが、自然に体がバランスが取れるように合わせてくれる。それが最近は大きく環境が変わってしまい、極端で癒やされなく、合わせてくれなかったりです。本来の原点なる拍子リズムを森の中で聞いてバランスを覚え身につける、その感覚感性を上手く受けとめる。歩くことと合わせるのは健康になること。

山があり川があり、湖もある、街も都市も最初は無かった。そもそもの最初に最小限の環境の中から、この千年の森で始めましょう。
身体のバランス(感覚)と、音を合わせ響きを造ること 聞くこと🟰健康と音について学ぶべきです。
動ける🟰 音が息づき純度あるものを聞く🟰 つまりそれが生きているです。難しいことの向こうにある目標です。見つけること/形式とか構造を真似ることから、解き放たれること。

川村祐介
「森を聴くとき、森も我々を聴いている。」

森の中で演奏していると生き物たちの明らかな反応を感じられることがあるのですが、それはどうも音量の様な分かり易いものに対しての反応ではないようです。後で録音を聴くと、演奏時の体感に比べてより連関が深く音楽的な振る舞いをしていることに驚くのですが、演奏時には意外にもそれが分かり難い。それは恐らく表面的な音の動きよりも、自身の内圧の高まりのようなものが森の発する気配と呼応していた為ではないかと推察するのですが、そのとき私が聴いて森に合わせているのか、森が聴いて私に合わせているのか、そういった先だとか後といった感覚とは違った感触があるように思えるのです。
ともかく森は、我々の振る舞いに対して決して無関心でもなければ、反射的に振る舞う機械的なものでもなく、無論ただ物質的である訳でもありません。私たちと森にどのような繋がりがあるのか、探ってみたいと思います。

多田正美の集団即興演奏

原始感覚美術祭の場で、集団即興演奏する。 
その当日に参加している人、観客で来ている人から参加を求めます。どのように行うのか、それがどう集団即興演奏なのか、そこで体験して(演奏者と観客の境は無い)欲しい。

何が集団即興演奏? 楽譜や西洋音楽での拍子や専門用語とか言語にとらわれず、複数の奏者でその場の中から互いが反応し合って、波動という音を切っ掛けとして造って行く演奏形態。

ここでの集団即興演奏は音楽教育の一環とかではなくて、原始感覚=誰にも備わっている無意識の力を呼び覚してかたちにして見せる、その新しい使い方とでも言えたら良いのですが、完全とは言えないのですが(経験は不完全との狭間に積み重ねる)、暗くではなく明るく未来に向かう。

何も無いと基本的には何も起きない(歴史とかではない)、先ずは個人の経験を参考にしてもらうしかないのですが、60年代から70年代かけて起きていた新しいARTの風を受けて、その続きが今の現実社会に繋がっていない?のですが、ここに至っても変わらないものは変わらなく続いて来ている。自由即興演奏をやり始めたのはその中頃(1971)からで、その前はそれが何なのか解らないのに、身体と音が完全一致するのが楽しかった、物心ついた頃からの変わらぬ記憶。現代音楽と云うジャンルに出会って、本能のまま曲にしたらそれが1950年代のポーランド学派だったと言われて不思議、勉強も知識も一切無いのにです。分からない事が起きたらそこから勉強始めれば良いと、確かにです。歴史の延長線とは相反しているのに、今も変わらないようです。その根源的さを徹底することと、至高さを極めるは同じだった。集団即興演奏は1969年頃からのタージマハール旅行団に続く、1975年の小杉音楽教場が神田で行われ通い始めた、その仲間の生き残りと最近は海外から(2008-)呼ばれて、Marginal Consortの名で集団即興演奏3時間を4人で奏し続いている。その内容ですが、事前の打ち合わせは無く、技術歴史もない初源的な究極の場で、集団とはいえ基本は一人々々のSolo演奏であり、互いが離れた距離の中なので、全体を聴けているのは観客です。これまでの既成常識から逸脱して、未来の原始感覚を体験していると言えるのかも知れない。簡単で難しく難しくて簡単な場を体験して欲しいです。


千年の森自然学校